yuritomi

第一回(2012年12月26日16:00~)までに考えてくること

・村井と堀尾とで「教育学」の捉え方はどのように異なるか。

・村井の「教育」の捉え方に対し論評を加えよ。

yuritomi

第二回(日程未定)までの宿題

・3年生は、村井実『教育学入門』を読んで、わからなかった点を1月11日までにサイトにアップ(このコメント欄でも可)する
・(全員)ゼミ当日には上記の不明点を中心に自分の理解をまとめたレジュメを用意する
※レジュメを作る際には、検討図書のページ数を明記すること

Yushi INOUE

【第2回に向けての課題】

教育思想に関する記述として、本書前半部分から①、②を取り上げました。その教育思想について第4章以降詳しく書かれていますが、その中から③の記述を取り上げ、それについて①、②と関連させて考察してみたいと思い、「理念の存在とその働きが強調される教育思想の中で、理念はどのような役割を果たしているのか、また、なぜ教育思想において理念の存在とその働きが強調されるのか」
という疑問(論点?)を挙げさせてもらいます。

①P74L12~
「どう教育するか」の指令というのは、それがすぐれた指令の体系を意図するかぎり、本来、教育に関わるあらゆる状況についての「知識」、つまり、「教育とは何か」への答えとしての「科学」を求め、その上に立つ「思想」として構成されなければならないはずであった。

②P77L12~
教育思想は、「教育問題の科学」の基礎の上に発展することができる。だが、その教育思想もまた、一たび発生して、現実にさまざまの「教育問題」の根源となる以上、それ自体が重要な「教育問題」の一つなのである。その意味で、「教育問題の科学」としての教育学にとっては、教育思想というのも、最も中核的な関心と研究の課題であるといわなければならない。

③P130L1~4
教育思想を考えるうえで、理念の存在とその働きを強調するばあい
→理念というのは、教育思想の成立の関して、いわば、このアリストテレスの、いわゆる「目的因」の役割を果たすと説明されうるであろう。

「理念の存在とその働きが強調される教育思想の中で、理念はどのような役割を果たしているのか、また、なぜ教育思想において理念の存在とその働きが強調されるのか」

11期 井上有史

katoyu

10期 加藤祐輔

□疑問点
①『「善さ」について』
 経験を超越した存在として「善さ」を定義する場合、我々はどのように「善さ」の概念を確認しているのかが疑問に思った。

②『E-MⅢ型について』
そもそも自発性は備わっているのかということ、又、外部による働きかけによって影響を受けた場合、その主体としての人間に自発性は備わっていると言えるのかということを疑問に思った。

mio ka

①村井が主張する真正の教育思想の妥当性に関して
・p192 l16~
「私たちは・・・特にこのE-MⅢ型の方法像に立つ教育思想を区別し、これをもっとも真正というべき教育思想と考えることができる」

⇒果たしてE-MⅢ型の方法像に立つ教育思想は現代日本社会にふさわしい真正の教育思想と呼べるのかに関して疑問に思いました。

・p192 l10~
「もっぱら、自分自身の自発性によって、しかも、E(過程像)のイメージによる外からの働きかけをてがかりとしつつ、自分自身のE(結果像)としての「善い人」を実現していくことになるのである」

⇒しかし、「善い人」になるために、あくまでも「過程像」と見なされる親や教師をモデルとする過程において、子どもは安易に「過程像」から強く影響される可能性と考えられます。
⇒さらに、「結果像」が不明である上で、異なる「過程像」から子ども一人一人独自の「結果像」を見出すのは妥当な考えでしょうか?

②教育される側の定義について(細かいところですみませんが)
・p17 注のところ
子どもを「成長を期待されるかぎりの人間」と定義しました;
・p140 注のところ
子どもを「『善く』なろうとするかぎりの人間」と定義しました。

⇒この2つの定義には、妙にずれがありまして気になりましたが、つまりp140ページの定義によると、善くなろうとしない人間は教育対象としないことになるでしょか?ではまったく善さを自ら求めようとしない人間に対しても教育はやはり成り立つ場合では、それがそもそも善さを積極的に求めている子どもに対する教育思想とは同じものであるでしょか?

yuritomi

第三回(2013年3月8日)に向けての宿題
・3年生は、堀尾輝久『教育入門』を読んで、2月22日までに、わからなかった点をサイトにアップする

・(全員)ゼミ当日には上記の不明点を中心に自分の理解をまとめたレジュメを用意する
※アップ&レジュメを作る際には、検討図書のページ数を明記すること

・(全員)堀尾の検討終了後に読みたい文献を、2月22日までに、各自アップ

yuritomi

・読みたい文献(富塚)

ノディングズ,ネル『教育の哲学–ソクラテスから“ケアリング”まで』宮寺晃夫監訳、世界思想社、2006年.

「古代ギリシアから現代に至る教育上の諸問題とその解決法を紹介、特に人間の生き方や社会のあり方に関わる価値問題を中心に、教育研究の最先端をゆくテーマを平易に解説する。独自のケアリング理論で知られる著者による教育哲学研究の集大成。」
(参考までに…Bookデータベースの紹介文から引用)

現代の教育哲学者の教育思想ってどのようになっているのかな~、どんな感じなのかな~、何が問題にされているのかな~…と思ったのが、この人の本を選んだ理由です。個人的に読んでみたかった本でもあります。

二世代(?)前の村井&堀尾から、いきなりここに飛ぶのは、ちょっと飛ばしすぎでしょうか。

…こんな書き方で大丈夫でしょうか…。
なにかご質問等あればぜひ書き込んで下さい。

mio ka

検討図書候補
・マイケル・W・アップル『教育と権利』浅沼 茂・松下晴彦訳,日本エディタースクール出版部、1992年
(堀尾と同じく教育と政治、教育と国家の関係を語る書物であります。ただし著者はアメリカ人であるため、日本の教育事情と一致しないところも出てくるかもしれませんが、それをまた興味深く検討できるのではないかと思います。個人的に検討する書物であります。)

・石附実『比較・国際教育学(補正版)』東信堂、1996年
(比較教育学の基礎でもあり、比較教育学ゼミに属する私たちにとっては検討する価値が十分にあると考えますが、内容が多様で分厚いものなので特定の部分のみ検討することが理想的だと思います。)

mio ka

皆様 

大変失礼しました。
挙げさせて頂いた検討図書候補の一冊目は『教育と権利』ではなく、『教育と権力』であります。

ご迷惑をかけてしまいまして大変申し訳ありません。

mashino

書く場所ができていたのでほっとしました。

さて、先生の研究対象を見るのもよいのではないかということで、Robert M. HutchinsのThe higher learning in AmericaとThe Great Conversation
を挙げてみます。後者は日本語訳も出版されているので、それと見比べながら
というのもよいかなとも思います。訳本は慶應義塾にはないようですが、私は個人的に所有していますので、お貸しできます。

mashino

みんなの候補を見た上で、もう2つ候補をあげてみます。
・E.D.ハーシュ『教育が、国をつくる』TBSブリタニカ、1989年。
・アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』みすず書房、1988年。

Yushi INOUE

【第3回に向けての課題】

本書全体を通しての大きな疑問点を挙げさせてもらいます。

P14L5~「教育とは何かを考える手がかりは、教育とは何であったかをふり返ってみることによって得られます。」
この記述だけを見てみると、村井の考えと共通しているようにも思えるが、果たしてそうなのだろうか。村井の言葉を当てはめてみると、「教育とは何か」=「科学」、「教育とは何であったか(村井の言う「どう行われてきたか」にあたると考えられる)」=「思想」、である。後者については本書の前半部分で扱っているが、前者に関してはほとんど述べることが出来ていないのではないだろうか。
文章中に、「教育とは…」というような記述が、【P93L10~・P95L2~・P98L3~・P106L10~・P107L7~】に見られるがそれらは「科学」としての「教育とは何か」になっているとは言えないのではないだろうか。P185L1~を根拠に、今(現在)の教育問題に答えを提示しなくてはいけない、という思いが強かったという理解でいいのだろうか。もしそうであったとはしても、果たしてそれでP122L14「教育研究の究極目標としての「全体としての人間形成」」について答えを導き出すことが出来るのだろうか。結局は「教育とは何か」という問いに答えることが出来ていないのではないかという疑問を感じました。

 次に検討したい文献ですが、いくつか候補を挙げさせてもらいます。

以前話にあがった「国家と教育」というテーマに関連させた文献を見るのであれば、
・村井実『教育と民主主義』東洋館出版社,2000
・J.デューイ著.松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店,1975
この二つであれば『教育入門』からの流れもスムーズなのかなと思います。

また、新しいテーマとして比較概説書を見るのであればこれも以前話にあがった、
・馬越徹『比較教育学―越境のレッスン―』東信堂,2007
がいいのかなと思います。
以上です。

良い春休みをお過ごし下さい。

11期 井上有史

mio ka

疑問点
①p122「全体としての人間形成」(これを人格とよんでもよい)という記述があり、つまり人間形成=人格形成という考えになりますが、このように安易に人間=人格として捉えてもよいのかという疑問です。

②p52-57では「学問の自由」及び「教育」と「学問」の区分などが論じられていますが、「学問」と「教育」の違いそして現代の文脈において(現代日本社会において)「学問」と「教育」の関係は変化しているのかに関して気になりました。

katoyu

堀尾疑問点
・義務教育について
義務教育が基礎学力と国民共通の教養が目的であり、また義務を課されるのは子どもではなく親や社会とされているが、子どもは教育を受ける権利のみしか持っていないのか?子どもにとって義務教育は義務ではないのか?ということを疑問に思いました。
・完全に読み込み不足ですが、教育的価値の部分があまり理解出来ませんでした。

・読みたい文献
天野郁夫「大学の誕生」

katoyu

・上記の本の選定理由は、村井・堀尾両氏の著作を読んで、日本独自の教育の成り立ちに独自性を感じたということと、自らの研究したい領域が日本の高等教育であるということです。

宜しくお願いしますj。

mashino

・次回について
<日時>
3月29日(金) 10:00~
<課題>
課題:デューイ『民主主義と教育』第一章~第五章
<レジュメ担当>
第一章:間篠
第二章:加藤
第三章:井上
第四章:夏
第五章:富塚
<事前の宿題>
3月22日(金)までに分からなかった点や議論したい点を全員がサイトにアップする。全ての章について提起する必要はない。レジュメ担当者はそれらの点を踏まえたレジュメを用意する。

yuritomi

第4回への宿題

○疑問点(本文解釈について)
・デューイの「教育」において、「教育する側」(⇔被教育者)には、「教育する」という明確な意図はあるのか(必要であるのか)。

とくに、第3章「指導としての教育」について、です。
「個人が生活し行動し生存している社会的生活環境の存在そのものが、彼の活動を指導する…作用なのである(53頁)」という文がみられます。「生活環境」の存在そのものが「指導(「指導としての教育」)」をするものであるならば、「教育」するものが「教育」する意図をもっていなくとも、勝手に「教育」は成立する、という解釈で良いのでしょうか?

○全体で議論したいこと
⇒以上のような疑問から出発し、J・デューイの「教育」モデルについて議論したいと思いました。(たとえば、村井の教育モデルのように表して考えると、どこが一致し、どこが異なるのか?あるいは、同じレベルでは論じられないものなのか?)
とくに気になるのはつぎの点です。
・「発達」をどう表すか
・「教育する側(「成長」を保障してあげるもの)」が、「教育する」という明確な意図を持ったものでなくても、「教育」は成立するのか?
・学校教育におけるケースと、それ以外の「教育」とでは、上記のモデルにおいて異なる点があるか?

yuritomi

追記:
上記の「全体で議論したいこと」ですが、今回の範囲が5章までなので、今回焦ってやる必要がないかもしれません。(今回のレジュメに記載する必要はありません。)
この本を読み終わるまでに、ふわっと考えておいていただければ……と願っています。^^

富塚

Yushi INOUE

【第4回に向けての課題】
各章(担当箇所は除く)を読んでいてわからなかったところを、細かいのですが挙げさせていただきます。
第一章
P23L8~「教育哲学がとりくまなければならない最も重要な問題の一つは、教育のあり方の、非制度的なものと制度的なものとの間の、付随的なものと意図的なものとの間の、正しい均衡を保持する方法である。」
→どうして「教育哲学」なのか、また、ここにおいて「教育哲学」が果たせる役割とはどのようなものなのかを知りたいと思いました。
第二章

P36L8.9「共同生活は…それらが結びつく対象を与える。」
P37L3~6「意識的で計画的な教授がなしうることは、…いろいろな対象を与えて、…。」
→二つとも対象を与えるというものとして記述されているが主語が異なります。前者は「共同生活」で、後者は文脈的に「学校教育」のことを指していると考えられます。
⇒「共同生活が対象を与える。」というところに少し違和感というか示唆的なものを感じました。どうして「共同生活の中には対象がある。」というような記述にしなかったのか、そこにはやはり「生活=教育」というデューイの考えが意図されているように思えたのですが、このような理解でいいでしょうか。また、もしそうなのであれば「対象」はあるものでなくて与えられるものでしかないのかということが疑問に思いました。

P44L1~7の部分で「調整統合」と「安定化と統合」という言葉が出てきましたが、これらの違いは、「調整することによって安定化を図る」という一連の流れから生じているという理解でいいでしょうか。

第四章

P87L11「発達を比較的見地から解釈すれば、…」とありましたが、比較的見地から解釈するとはどういうことなのかが理解できませんでした。

P89L8.9「より以上の成長以外に、成長が対比されるものは何もないのだから、より以上の教育以外に、教育が従属するものはなにもないのである。」完全に日本語の問題で恥ずかしいのですが、何回読んでも何を言ってるのかいまいち掴めませんでした。

第五章

P98L16.17「活動を起こさせる力は、絶対者の本質的諸特徴に対応する、主として数学的な象徴の提示である。」
「数学的な象徴の提示」とはどのようなものなのでしょうか。問題に対して確実な答えが用意されているようなことを指しているのでしょうか。

P99L12.13「彼は、成長の停止を意味する目標を設定し、抽象的で象徴的な定式への翻訳による以外は、諸能力の直接的指導には応用することのできないような基準を設定したのである。」
→「目標」・「定式」・「基準」が何を指しているのかがわかりませんでした。

よろしくお願いします。
11期 井上有史

mio ka

第4回への宿題

疑問点
・第二章
p40~(後ろから3L~)「この共同生活の様式は・・・」では、学校の持つ3つの機能が書かれています。

疑問に思ったのは、特に2つ目の機能にあるのです。(p41 第2段落目~)
この機能によると、学校は「心的習性に影響を及ぼすものの中に入り込まないように、そこから、できるだけ、取り除く」ことが任務とされます。
さらに学校は、「現存する業績の全体を伝達し保存することではなくて、よりよい未来の社会に寄与するようなものだけを伝達し保存する」という目的の達成のために創られたと述べられます。(p42 1L~)
つまり、現存の社会にて価値のないと見なされる「悪いもの」を取り除き、「最良のもの」・「善いもの」だけを選び出すという大人たちの意図的な行動を通して学校を無菌室のように子どもを保護することは、「よりよい未来社会」への発展に結びつく主張なのですが、果たしてそれは可能なのでしょうか?

p45~要約でまとめられたように、学校の任務は「発達させることが望まれている性向の諸要素を単純化し・・・、いっそうよく均衡のとれた環境を創り出すことである」とされ、学校で創り出された新たな社会と現実社会のギャップは如何に埋められるかが気になるところです。

今回は質問一つで、うまくまとまらずに長々となってしまいましてすみません。

mashino

今日は卒業式でしたね。卒業おめでとうございます。
そしてそんな日にしっかりと宿題をアップ、お疲れ様です。

さて、私からは以下の2点を提示してみます。
1.「教授」と訳されている言葉の原語にはinstructionとteachingとがある。この二つはどのように異なるか。(2章中心)
2.村井の教育論と比較したとき、デューイの教育論における「成長」はどのように理解できるか。「善さ」が想定されているならば、それに向かって歩を進めることが成長だと言えるだろうが、デューイの場合の「成長」とはどのようなものだと考えられるか。(4・5章中心)

katoyu

民主主義と教育(上)1-5章、宿題

□疑問点『成長と適応について』
P.36において著者は「昔の人々を愚鈍であると考えがちだが、興味の対象が違うだけであり、現代人が優れているわけではない」という主旨の意見を記述しているが、ともすると人間の教育は時代的に広い視点から見た際のそれぞれの時代の環境に対する一時的適応を可能にするのみであるのだろうか?
そのように考えた場合、P.74-75で著者が主張している人間の成長の可能性は妥当であると言えるのだろうか?
ということを疑問に思いました。

□議論の内容
まだ1-5章で全体は把握出来ませんが、章と章の関係について議論したいと思いました。

mashino

次回について
<日時>
4月15日(月) 15:30~
<課題>
課題:デューイ『民主主義と教育』第五章~第七章
<レジュメ担当>
第五章:富塚
第六章:夏
第七章:井上
<事前の宿題>
4月10日(水)までに分からなかった点や議論したい点を全員がサイトにアップする。全ての章について提起する必要はない。レジュメ担当者はそれらの点を踏まえたレジュメを用意する。

mashino

第六章、第七章を通しての論点として(この本全体を通しての論点と言ってもいいかもしれませんが)、デューイの言う「悪」(p.131)とはどのようなものか、「悪」か否かはどのように判断されるのか、という点を挙げてみます。今までにもそれに近いことは議論されたように思いますが、もう一度意識的に話し合ってみたいと思います。

mio ka

デューイ 民主主義と教育(上)6~7章

疑問点
・また、p160要約のところに、「すべての成員が等しい条件でその社会の福祉に関与できるように条件が整備され、いろいろな形の共同生活の相互作用を通じてその制度を柔軟に調整し直すことができるようになっているような社会は、それだけ、民主的なのである」と書かれています。デューイが言っている「等しい条件」というものは、いかなる尺度ではかるのかについて疑問に思いました。

・p142~143には(三.プラトンの教育哲学までの部分)、各人は自分の行動を他人の行動に関係づけて考えて、また自分の行動に目標や方向を与えるために他人の行動を熟考しなければならないと書かれ、さらにそのように一つの関心を共有する人数が増え、共有された関心の範囲が拡大することは、多様な個人的能力が解放される結果をもたらすと述べられています。しかし、他人の行動を考えた上で自分の行動を取る行為によって、関心の範囲はむしろどんどん狭められるのではないかと疑問に思いました。

全体で議論したいこと
・第7章まで読んだ限り、デューイは社会の静的な目的や理想(不変なもの)を否定的に捉えているように感じていますが、彼が考えている能動的な目的(可変なもの)などは具体的にどのようなものなのかについて

Yushi INOUE

【第5回に向けての課題】

P127L11-13に教育の専門的な定義として「教育とは、経験の意味を増加させ、その後の経験の進路を方向づける能力を高めるように経験を改造ないし再組織することである」という定義が記述されています。
ここで記述されている「経験」とはいかなるものなのかについて、1~7章までを踏まえて一度意見を共有してみたいと思いました。「経験」については、これまでの章において非常に多く述べられてきています。第11章「経験と思考」があるということと、『民主主義と教育(上・下)』が書かれた約20年後に『経験と教育』を書いているということから、もう少しあとに議論した方がいいのかもしれませんが、一度共有し、まとめるということと、今後扱うテーマの方向性を広げるという意味で今やってみてもいいのではないかと思いました。

P158L7.8「教育制度が、民族国家によって運営されながらも、それでもなお教育過程の完全な社会的諸目的が、制限もされず、拘束も受けず、堕落もしないでいることが、はたして可能であろうか。」という記述があります。この後に「教育の民主的理想」が述べられ、この理想が公教育制度をますます支配するようにならなければならないということと、同じ原理が国家間の関係に関する考察の面でも通用することを述べているのですが、このように書いてはいるものの、デューイ自身は上記したP158L7.8のようなことが現実的に可能であると思っているかが疑問に思いました。第7章をみてみると、理想的な状態や理論的なことは述べていますが、これを可能にする具体的な解決策が提示されていないように思えたからです。
よろしくお願いします。

11期 井上有史

katoyu

第五回 課題図書(第五~七章)への疑問点

 第一章から第六章まで“人格(personality)”という語が出現しなかったにも関わらず、
第七章 五、国家的な教育と社会的な教育(P.153以降)において頻出するようになる。
加藤はその理由を、国家や社会といった大小さまざまな組織と、構成員としての個人
とを媒介する教育について言及する箇所であるからと考えるが、皆さんはどのように
考えるか?本文中にも登場する他の語句(“人間性(humanity)”や“個人(individual)”)
との比較を通して考察してみたい。

加藤祐輔

yuritomi

遅くなってごめんなさい。

本文解釈についての質問です。
・「改造」としての教育について
「経験を絶え間なく再組織ないし改造すること(127頁 4行目)」の意味が、いまいちピンときませんでした。経験と「改造」とは同時に起こるのでしょうか、それとも、厳密には経験が「改造」に先立つのでしょうか?
「改造」とはどのようなことなのか、みなさんの解釈をぜひ聞かせてください。

konkon

コメントが大変遅くなってしまいすみませんでした。

<1章から7章まで読んで話し合ってみたいと思ったこと>
①大人と子どもの境界線について
 デューイは、「子ども=不完全体、大人=完全体」という考え方を否定しているにもかかわらず、人間を「子ども」と「大人」に二分化して論を進めています。幼少期や青年期という言葉が本文に出てきているので、あくまで年齢?で区分しているのかもしれないのですが、一応この二つの境界線について話し合いたいです。

②当時のアメリカ社会がデューイの思想に及ぼした影響について
 2章や7章で「社会的環境」や「社会」についての話がでていますが、デューイの考え方は、当時のアメリカ社会の現状や問題に強い影響をうけているのではないかと思いました。デューイの思想をより深く理解するために、ぜひ現実社会と照らし合わせながら、本の内容を考えてみたいです。(これまでの内容を読む限り、バラバラな(多様性がある)アメリカに、教育で共通の基盤をつくりたいという意志が強いのかなと個人的に思いました。)

③「未開の部族(社会)」について
 本文の中では、文明社会と未開社会を対比させている部分が多いと思います。「文明社会=刺激が多い」「未開社会=刺激が少ない」というデューイの考え方も分かるのですが、個人的には、未開社会にも文明社会の人間には気が付かない刺激や経験がたくさんあるのかなと…。例えば、人が鳥や野生動物から受ける刺激などは、文明社会の人間はただ気が付いてないだけで、未開社会の人にとっては大きな刺激であると思います。そのため、一概に「未開社会=刺激が少ない」というのには違和感を覚えました。
 これに関連して、7章(p137-138)で触れられていた、「刺激と反応の偏り」の判断基準や、どうすれば「知的刺激が均等なるのか」についても考えてみたいです。

※あと、5章の「開発としての教育」の部分の理解が甘いので、何が分からないのかを明確にして進研ゼミに臨みたいと思います。

金子育美

mashino

次回について
<日時>
5月10日(金) 13:00~15:00(今回は終わりの時間を決めました)
<場所>
追って連絡します
<課題>
課題:デューイ『民主主義と教育』第7章~第8章
<レジュメ担当>
第7章:井上
第8章:金子
※論点に対する応答や章の内容についての細かな説明を行うだけでなく、章全体の構成や、章と章との関係にも注意してレジュメをつくること。
<事前の宿題>
5月3日(水)までに分からなかった点や議論したい点を全員がサイトにアップする。全ての章について提起する必要はない。レジュメ担当者はそれらの点を踏まえたレジュメを用意する。

mashino

少しずつ試験も近付いてきたので、英語関係の論点を一つ。
第8章ではendと対比させてaimについて論じられていますが、この章で「目的」と訳されている言葉にはもうひとつpurposeがあります。purposeは両者とどのような関係にあるのか、考えてみたいなと思います。

Yushi INOUE

【第6回に向けての課題】
間篠さん流れを受けついだという訳ではないのですが、英語に関係する論点です。

◇第3章「指導としての教育」においては、「知力」とされている。
◇第8章「教育の諸目的」においては、「意思」とされている。

◇第3章【知力(mind)】P61.62
・具体的には、事物を使用法の点から理解する力
・社会化された知力(mind)とは、共有された状況においてそれらの事物を用いる使用法の点からそれらを理解する力
→このような意味で知力(mind)は、社会統制の方法。

◇第8章【意思(mind)】P166.167
・目的をもって行動することは理知的に行動すること
→ある意思(mind)を持つことを意味する。
・意思(mind)とは、
①諸事実とそれら相互の関係の認識によって統制された意図的で有目的的な活動力
②現在の事情を未来の諸結果に、また未来の諸結果を現在の事情に、関連させてとらえる能力

◆「知力(mind)」→「意思(mind)」というような、「知力(mind)」の先に「意思(mind)」があるという関係性がおおざっぱにですが、両者間にはあると思います(それは違うという意見もあるかもしれませんが…)。そこで、デューイは第3章と第8章の「mind」をどのように考え、扱っているのか。二つの関係性・共通点・相違点等について論じてみたいです。
よろしくお願いします。
11期 井上有史

mio ka

11期の夏です。

読み込み不足で生じた疑問点かもしれませんが、以下のようなものがあります。

【疑問・気になったところ】

・第8章で出てきた「機能する予言」と前、とりわけ第6章で詳しく説明された「経験」とは関連性を持っているかについて疑問に思いました。
p165で「予言された結末としての目的は、活動に方向を与える」といった文言と、「予見は三つの点で機能する」以下のところの記述を関連して考えてみると、「機能する予言」を「経験」の一種として考えられるのではないかという素朴な疑問が生まれました。

・もう一つ引っかかったのは、p163では「単なる結果resultsを目的endsと対比する」といったような記述がありますが、p130では「目的(結果)」(英語原文ではthe end(the result))と書かれています。
明らかにデューイは第8章で目的endsと結果resultsを別物として捉えているようなんですが。
しかし第6章によると、目的the end と結果the resultを同一物として捉えているように見えるのです。
(それは定冠詞があるかどうかによって生まれた差異なのでしょうか?)

katoyu

疑問点①AimsとEndsについて
 本章においてデューイは、AimsとEndsという二つの“目的”が存在することを示している。「Ends=外発的な目的、Aims=自発的な目的」であると記していることから、とりわけAimsが活動を理知的にする真の目的であると私は読み取ったが、本章二節の節題がThe Criteria of Good Aimsであることや、本文P.170,5行目に「One of the evils of an abstract or remote external aim in education」と記していることからAimsにもGoodではないもの、外発的なものが存在することが考えられる。
 そのように考えた場合、Ends/Aimsの両者は単純にGood/Badの関係なのだろうか?またExternal aimとends lying outsideはどのような関係なのか?

疑問点②包括的な目的、一般的な目的について
 P.177最終行(それ以降)でデューイは一般的な目的と包括的な目的を並列あるいは言い換えて用いている。包括的な目的が包括たる所以は理解できたが、それがなぜ一般的と言い換えることができるのかが疑問に感じた。
 一般的な目的について説明して欲しい。

katoyu

補足
疑問点②について、原文がGeneralなので一般的ではなく全般的ではないか?

上の投稿で付記し忘れましたが、共に質問者は10期 加藤祐輔です。
宜しくお願いします。

konkon

11期の金子です。第6回にむけての疑問点を挙げておきます。
(8章レジュメ作成の担当者ですが、一応、問題意識共有のためにシェアしておきます)

・目的(aim)の性質について。私は、目的(aim)は、「ある者がある対象に設定するもの(ex. 教育者が子どもに設定する)」として捉えていました。ただ、改めてp163の蜜蜂の例を考えてみると、自分で自分自身に設定することもできるのではと思えてきました。(蜜蜂の部分では目的(end)について書かれていますが、p164では活動の帰結を予想できるならばaimの根本的要素を持っているとされるので、この例もaimの性質を考える上では、考慮すべきだと考えました。)そのため、aimとはどういった主体がどのような対象に設定できるものなのかについても考えてみたいです。

・1章のp20では、「我々の務めは、子どもたちを共同生活に参加できるようにしてあげることだ。」と書かれています。「我々」が、aimを設定する教育者・教師・親などと同一であるとすると、上記のビジョンを持ったうえで、そのビジョンに向けたaimを設定していくというような捉え方で正しいのでしょうか。8章では子どもの変化に合わせてaimをフレキシブルに変える必要があると書かれていましたが、それが必ず、上記ような務めを果たすことにつながるのかということを少し疑問に感じました。

以上です。

yuritomi

富塚です。

こんこんちゃんの疑問点と重なるところがありますが、この章における大きな疑問は、
・「目的」とは「教育者(174頁6行目ほか)」だけのものなのか?
という点です。

170頁、174頁では教育する側(174頁では「教育者」)の設定する目的にのみ言及していますが、デューイの理想とするような、(目的達成の)手段自体が価値をもつ、そして経験そのものが価値をもつような活動が行われるためには、子ども自身も何らかの考え(meaning)を持っている必要があるのではないでしょうか。
その点について、デューイの考えをどのようにとらえればよいのか、考えていきたいです。

(また、もしも子ども自身による「目的」が想定されているのならば、子どもの「目的」と「教育者」の目的との関係も考えてみたいです。)