「学識」に関する比較研究!読書感想(廖)

1、「変わるニッポンの大学―改革か迷走か」
論点:学識は伝授されるのか?開発されるのか?先生に対する新たな要求が求められる

「自分の頭で考えなさいとか、自分の意見を述べなさいといわれるだけど、どうすれば自分で考えることができるのか。どうすれば自分の意見を持てるのか。その方法は、高校でも学ばなかったし、今大学でも教えてくれない...」と思う学生が少なくない。
確か、小学校から高校まで、新しい知識の「開発」より知識の伝授や把握の方が重視されている。学期末、学識の把握をテストで判断する。授業中、もし先生側から知識点への疑問や不明の姿が学生に見られたら、その先生の権威が失うことになると思う。自分の学生時代を振り返って見ると、「学識」を持つように見える先生を尊敬する、信じるという気持ちが強かった。しかし、「問題意識」を学生に意識させないと、新しい学識も生まれない。先生はどのようにその「問題意識」や「権威への疑問」を学生に教えるのか?「先生としての権威の維持」と「問題意識の開発」とのバランスをどのようにとるのか?

2、「中世の学問観」
論点:「好奇心」のための「学識」と「実用」のための「学識」をどう認識すべきか?

デカダンスの時代、知識人と呼ばれる人々は、後に「自由学芸」と呼ばれることになる諸科学を中心とした教養を身につけていた。当時上流社会の政治家と軍人にとって、政治体制の構築、自己主張の発言、相手への説得を実現するため、「言葉」の教養を身につけていなければならなかった。つまり、古典古代の教養人の理想は「雄弁なる人」であった。こういうところは今の欧米教育の中でよく残っていると思う。だから、中世の三学「文法学」「修辞学」「弁証論」という三つの科学を学ばなければならなかった。しかし、教養人は単に「雄弁な人」であるだけでは不十分であった。彼はまた「学識の人」でもなければならなかった。「音楽、幾何学、算術、天文学」という「四科」になる諸科学が教授されることになる。「自由学芸」はその三学と四科から成り立っていた。自由学芸などの学問は「世界理性の自己展開、発出」として捉えられていた。自由学芸を自己目的化すること、単なる「好奇心」のために自由学芸を学ぶことは、厳しく戒められなければならない。
それに対して、ロジャーベーコンによって、「経験科学の「経験」には実践、観察といった意味も含まれ、他の学問によって与えられた結論を、実験、観察によって確証することが経験科学の主な役割である」と分かる。そのため、何より「実験」の重要性を説いたベーコンは実験的側面の先駆者とされる。それゆえ、単なる「好奇心」のため習った「学問」が「実用」と繋がっている。そして、ベーコンの「実験」思想も後世に大きな影響を与えられた。「実用性のある専門」が重視されている現状もベーコンの思想と関わると思う。

注:以上は「中世の学問観」から引用する
「好奇心」のための「学識」と「実用」のための「学識」をどう認識すべきか?未来の教育の行方はどうなるのか?これから、こういう疑問を持ってもっと調べたいと考えている。

以上はアップした文献の読書感想です。まだ完全に理解できていないと思うので、もっとまじめに読む必要があると思います。

「学識」に関する比較研究 文献調査(廖)

1、「中世の学問観」 上智大学中世思想研究所編 創文社 1995.8
13世紀から15世紀までの代表的な思想家たちの自己理解と学問観の変遷を概観する本です。自分にとって難しいと思いますが、歴史的な視点から見る中世の知識観の変遷が現時代の学問の本質に今日的的な考えになるのではないかと思い。この本を挙げました。

2、「変わるニッポンの大学--改革から迷走か」 苅谷剛彦 玉川大学出版部 1998
日本の大学はどこへ向かおうとしているのか。大衆化時代の大学入試、改革、カリキュラム、教育改善のシステムなど大幅に検討しました。中に、第4章と終章において、「学識」に関する問題が提出されるので、この本を挙げました。